土岐頼兼墓(ときよりかねのはか)

ページ番号1002349  更新日 令和2年2月17日

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写真:土岐頼兼の墓

土岐頼兼は、室町幕府の初代美濃国守護となった土岐頼貞の十男といわれ、兄の頼遠が家督を継いで長森(現・岐阜市)に移った後、土岐町に所在する鶴ヶ城(神箆城)の城主となったと伝えられます。
正中元年(1324年)、鎌倉幕府を追討して王政復古を望んだ後醍醐天皇は、側近の日野資朝、日野俊基らと謀って密かに兵を募りました。
この挙兵に応じた頼兼は一族の多治見国長、船木頼春、深沢定氏、尾里国定、萩原国実、猿子国行、市原国宗らを率いて京都に上がりましたが、一族の土岐頼員が不用意に妻(六波羅探題奉行・斉藤利行の娘)に漏らした一言から幕府方の知るところとなり、六波羅探題からの急襲を受けて一族は討ち取られ、企ては失敗に終わっと伝えられています(正中の変)。
討ち取られた頼兼の首は京都の三条河原に晒されていましたが、家臣の根竹十郎がこれを奪って帰り、自らの館、根竹集落(現・土岐町桜堂)の見える高台に頼兼の首を葬り、自刃したといわれます。
頼兼の墓は、鶴ヶ城の北東約500メートルの自刃洞と呼ばれる山中に所在し、宝篋印塔2基と五輪塔3基が残されています。
なお、土岐頼兼に対しては、明治38年(1905年)に正四位が贈位されて名誉回復がなされ、昭和24年(1949年)には鶴ヶ城の山頂に頼兼を祭神とする土岐神社が創建されました。

指定番号
瑞史7
指定年月日
昭和30年11月6日
指定の別
市指定文化財
種別
記念物
類別
史跡
時代・年代
室町時代
員数他
1箇所
所在地
瑞浪市土岐町2752番地
所有者・管理者又は技術保持者
瑞浪市

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