収蔵品紹介

ページ番号1002326  更新日 令和2年2月25日

印刷大きな文字で印刷

館内展示

与左衛門の茶壷

写真:与左衛門の茶壷

この茶壺は、瑞浪市陶町大川にある大川窯跡で焼かれたといわれ、大川窯は室町時代の文明7年(1475)、加藤左衛門尉景信によって開かれたと伝えられ、天正2年(1574)年には織田信長から朱印状が下されたとも言われますが、現在確認されている窯跡は、桃山時代から江戸時代にかけてのものです。
この茶壺は、瑞浪市稲津町小里にある興徳寺に伝わるもので、大川窯の4代目を継いだ羽柴与左衛門景度が制作したものとされます。壺の底には与左衛門の銘(サイン)とクルミ印が確認でき、表面には鉄釉と灰釉をかけています。桃山時代から江戸時代初期にかけての大窯で焼かれたとみられ、高さ54センチメートルもある大型の茶壺です(茶壺は多くは高さ30センチメートル~40センチメートル程度です)。

このような大型の茶壺は極めて類例が少なく、「興徳寺の茶壺」として昭和54年に瑞浪市の文化財に指定されています。

屋外展示

千本杵搗(せんぼんきねつき)

写真:千本杵搗

江戸時代後期の文化・文政年間(1804~1830年)、美濃に磁器の生産技法が伝わり、長石や珪石などの窯業原料を粉砕した「石粉」の需要が急激に高まりましたが、それまでの原料粉砕は人力によるもので効率が悪く、需要を満たせませんでした。
そのような中、土岐郡小里村(現・瑞浪市稲津町)庄屋・和田亀右衛門光度、興徳寺住職・林恭邦和尚は、その打開策として、古くから精米などに用いられてきた水車を利用することを思い立ち、嘉永3年(1850)に水車を動力として複数の杵を動かす粉砕機「千本杵搗」を完成させました。
千本杵搗の開発により大量の石粉の生産が可能となり、小里村は窯業原料の生産地として大きな発展をみました。間もなく千本杵搗は東濃一帯(土岐川の支流河川)に広がり、最盛期には東濃地域で400車を越す大水車群が稼働するなど、千本杵搗は美濃焼の発展と近代化に大きく貢献しました。
その後も水車は釉薬製造などの動力としても用いられましたが、昭和30年代以降、工場の大型化や電力の安定供給などの理由により廃車が進み、現在実動する水車は当館の一基のみと推測されます(現在は電力で動きます)。
水車(千本杵搗と釉擂機)はご希望に応じて作動させますので、見学を希望される方はお気軽に受付までお申し出ください。

このページに関するお問い合わせ

みずなみ未来部 スポーツ文化課
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。

歴史文化係 化石博物館 電話:0572-68-7710
歴史文化係 市之瀬廣太記念美術館 電話:0572-68-9400
歴史文化係 陶磁資料館 電話:0572-67-2506
スポーツ推進係 市民体育館 電話:0572-68-0747