NHK大河ドラマ「麒麟がくる」明智光秀・土岐一族ゆかりの地

2019年2月12日

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瑞浪市には、明智光秀や明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族のゆかりの地が数多く残っています。
岐阜県では岐阜県大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会が立ち上がりました。瑞浪市も協議会に参加し、NHK大河ドラマに向けて、観光PRをしています。

イベント情報

未定

リーフレット等

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リーフレット(2MB)

明智光秀・土岐一族ゆかりの地

一日市場八幡神社

   

明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族が、土岐郡に土着した際に最初に居館(一日市場館:ひといちばやかた)を構えた場所と伝わる。本殿の裏には土塁と思しい遺構が確認でき、周辺では鎌倉時代を中心とする陶磁器片なども多数採集されている。一日市場の地名は周辺で定期市が開かれていたことに因むと考えられ、付近には大門・古屋敷・馬屋ヶ崎など、居館の存在をうかがわせる地名も残されている。
一説には、明智光秀は享禄元年(1528)に土岐郡高野(瑞浪市土岐町)で生まれ、当該地付近の尾形と呼ばれる場所には産湯の井戸が残されていたとされるが、詳細は不明である。
なお、八幡神社は土岐一族の創建・勧請と伝わるが詳細は不明。現在の本殿は江戸時代の安政7年(1860)に建築されたものであるが、立川流の見事な彫刻が彫られている。
古くは高野と呼ばれた地で、美濃源氏・土岐一族発祥の地とされ、八幡神社境内には土岐氏の一族である「明智光秀の像」がある。

鶴ヶ城跡

 

明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族が築き、以後土岐一族が城主であったと伝えられる山城で、高野城、神箆城、土岐城などとも呼ばれ、岐阜県史跡に指定されている。瑞浪市日吉町の開元院に伝わる文明8年(1478)に描かれた月泉性印和尚頂相図(月泉性印和尚の肖像画)には「土岐城主 頼元」の文字がみられることから、この頃には築城されていた可能性も考えられるが、詳細な築城時期は明らかでない。
戦国時代末期には延友一族(土岐を称したが遠山一族とみられる)が城主となり、当初は武田氏に、後に信長に従って当地方を治めた。特に、天正2年(1574)年の織田・武田の戦いでは、信長から小里城とともに本城が改修を命じられ、また川尻秀隆が配されて対武田軍への最前線基地となったことは広く知られている。
関ヶ原合戦後、間もなく廃城になったことから、戦国時代そのままの「土の城」の姿を見ることが出来るが、中央自動車道建設に伴い、遺構の一部が削平されている。

土岐頼貞墓

  

明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の中興、土岐頼貞の墓所で岐阜県史跡に指定されている。敷地内には頼貞の墓に加え、一族の墓と伝えられる石塔(五輪塔・宝篋印塔)が計19基残され、土岐一族が当地との結縁を象徴するために鎌倉時代末期から室町時代にかけて造営した一族墓と考えられる。
頼貞は足利尊氏に従い多くの戦功を挙げ、室町幕府の初代美濃国守護となった人物で、「土岐絶えば足利絶ゆべし」、「諸家の頭、筆頭の将」と称されるほどの信任を得た。その墓とされる石塔(宝篋印塔)には頼貞の没年である暦応2年(1339)の文字などが刻まれており、この宝篋印塔とその奥に位置する5基の五輪塔は東美濃のみならず岐阜県内でも最古に属する石塔群である。
なお、当該地には頼貞が建立した土岐一族の菩提寺、光善寺が所在したとされるが詳細は不明。

土岐頼兼墓

明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の中興、土岐頼貞の十男、土岐頼兼の墓。土岐頼兼は正中元年(1324)に起こった正中の変(後醍醐天皇のクーデター未遂事件)で戦死し、家臣の根竹十郎が首を当地に持ち帰ってこれを葬り、自刃したと伝えられる。
現在も当地には自刃洞の地名があり、宝篋印塔2基と五輪塔3基が残されている。

酒波神社

酒波神社は瑞浪市屈指の古社で平安時代には創建され、千年以上の歴史を有すると考えられる。
明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族が当地方を支配した際に八幡神が合祀されたため、鎌倉時代から江戸時代の終わりまでは八幡宮と呼ばれ、明治時代以降に再び酒波神社と呼ばれるようになった。
戦国時代末期の永禄元年(1558)に本殿等が消失し、現在の建物はその後に再建されたものである。
現在の本殿は元禄15年(1702)の建築、鐘楼は江戸時代中期の建築で、いずれも国登録有形文化財(建造物)となっており、永禄年間の再建を記録した棟札は瑞浪市指定文化財となっている。また、未指定・未登録文化財ではあるが、参堂入口の鳥居は規模も大きく一見の価値がある。

開元院

明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族で、当地方を治めた土岐頼元が永享3年(1439)に月泉性印を招いて創建した曹洞宗寺院。山号は鷹巣山(ようそうざん)。天正年間に消失し、その後現在の場所に再建されたと伝えられる。
本尊の観世音菩薩坐像は文和5年(1356)に造立されたもので、岐阜県重要文化財に指定されており、一説には定林寺(土岐市)の本尊を迎えたものとも伝えられる。この他、享和元年(1801)に建立された山門、そして文明8年(1478)に描かれ、「土岐城主 頼元」の記載がある月泉性印和尚頂相図(月泉性印和尚の肖像画)、江戸時代の駕籠が瑞浪市指定文化財となっている。

明白寺五輪塔

瑞浪市に残る五輪塔の中では最大のもので、高さ約140cm。造立時期は南北朝時代の可能性が高く、瑞浪市指定文化財となっている。
詳しい由来は伝えられていないが、明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の中興、土岐頼貞の九男で、土岐明智氏の祖ともなった土岐頼基の墓とも伝えられる。
なお、明白寺は山号を仏日山といい、室町時代に永保寺(多治見市)の修行僧が庵を開き、永禄年間(1558~1570)に焼失したと伝えられる寺院で、延宝3年(1675)に黄檗宗寺院として再建されている。

小里城跡

 

明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の流れをくむ小里一族が築き、以後小里一族の居城となった山城で、小里城山城跡(おりしろやまじょうあと)とも呼ばれる。築城時期は明らかでないが、小里光忠が天文元年(1532)頃に築いたとも伝えられ、岐阜県史跡に指定されている。
戦国時代末期、小里一族は当初は武田氏に、後に信長に従って当地方を治めた。特に、天正2年(1574)の織田・武田の戦いでは、信長から鶴ヶ城とともに本城が改修を命じられ、また池田恒興が配されて対武田軍への最前線基地となったことは広く知られている。
関ヶ原合戦後、領主(旗本)となった小里一族は山麓部に居館・陣屋・石垣などを築き当地方を治めたが、元和9年(1623)に断家となり廃城を迎えた。このことから本城では、江戸時代の「石の城」の姿を見ることが出来る。
また付近に所在する小里一族の菩提寺、興徳寺には城主三代の墓碑(供養碑・位牌)が残されている。

興徳寺

明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の流れをくむ小里一族が、江戸時代初頭に菩提寺として慶長6年(1601)に創建した臨済宗寺院。創建後まもない慶長13年(1608)に水害にあったことから、同16年(1611)に現在地に再建された(当初は小里城下に創建)。
享保4年(1719)には境内に小里光明・光親・光重(江戸時代の歴代城主三代)の墓碑(供養碑)が造立てされ、本堂内には位牌も残されている。
また庫裏には、かつてこの地に建てられた大蔵寺なる寺院の所蔵品と伝えられ、岐阜県重要文化財となっている木造菅公像(菅原道真の像)が保管されている。本像には「願主 源頼幸」「延文二年」などの文字が記され、延文2年(1357)に源頼幸(小里頼幸)なる人物によって奉納されたことが知られる。

堂ヶ坂の宝篋印塔

明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の中興、土岐頼貞の十男、土岐頼明の墓とされる石塔(宝篋印塔)。石材は安山岩で、一部の石材に「貞和四年」の文字が刻まれている。高さは155cmと市内最大の宝篋印塔で、瑞浪指定文化財となってる。
土岐頼明は一日市場で生まれ、土岐頼明が正中の変で戦死した後はその所領であった土岐郡東部を譲り受け、貞和4年(1348)の四条畷の戦いで戦死したと伝えられている。近年の研究では、本石塔の造立は戦国時代とされ、墓碑ではなく供養塔として造立されたものと考えられている。

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